「こう来るとは思いもしなかった」という意外性で勝利!?

 今日も雪です。というか、毎日雪を見るようになったのですが、いまだに雪を見るとワクワクします。きっと春になるころには、日常の感覚になっているのでしょう^^

 ということで、年末あたりから毎日、朝、出勤前に20分程度のルーチンワークが追加されました。それは、1.車の窓や上に積もった雪を地面に落とす(気をつけないと車に傷がつきます…)、2.車の前に積もった雪をどける(うちはマンションなので、自分の車の前の雪さえどければ、あとのマンション前の大通りまでは8時までに出て行った人が道を作ってくれています)、です。

 「ある選択肢(行動)を選んだことで得られなくなった、他の選択肢(行動)を選んだ場合の利益のこと」…①を機会費用(opportunity cost)といいます。

 毎朝、この20分程度の作業をすることは、結構なコストになっているのではないかと思います(^^;; …しかも作業後、手が冷たくて、数分間はヒーターの前で手をかざしますし(笑)

 この機会費用という考え方は、確かに①のように説明されることが多いのですが、「比較」という概念も重要になります。

 関西の大学で教えていた頃、授業にでてこない学生に「授業料だけを失っているわけではないんだよ」と言ったことがあります。その意味は、「授業に出ない」→「その授業分の授業料を放棄する」という意味だけでなく、大学に進学するという選択肢を選んだことで、「本来、その4年間に仕事で得たであろう収入」も失っている…②からです。

 もちろん大学に進学したという選択肢が、生涯賃金で計算することでどうなるかという考慮もあるのですが、それはともかく②の(学生にとっては意外性のある)説明は授業に出てこない一部の学生には有効でした。

 学生との話し合いと言えば、大学を中退する相談にくる学生ともよく話をしました。1〜2年前は、続けたいけど家庭の事情で辞めなければいけないという学生が数名いたのですが、入学までの準備、入学金や秋の授業料まで払っていてやめる(これを埋没費用(sunk cost)といいます)のは残念です。アルバイトをしてでも続けるように説得していました。

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 ちなみに先の②の考え方からすると、教える側の授業の質の保証も大事ですよね(^^;; 機会費用はあくまでも比較の問題ですから、複数の選択肢の中で、授業に出るという選択肢が最善のものでなくてはいけません。そのように考えると、ただ単に学生が授業にでるようにするために出席数に重きを置く評価にするのではなく、授業自体が魅力的であるための努力も欠かせません。

 大学というのは不思議なところで、FD(Faculty Development)としてここ数年前から、大学の授業の質の向上に取り組んでいます。しかし民間の感覚からすれば(特に教育サービス業を経験したものからすれば)、その新たな取り組み自体が不思議で、これも意外性を感じました。昔から授業料の対価として提供するもっとも大きなサービスが授業ですから、その授業の質の保証に対し、今になって取りかかるというのは…、もちろんやっていて当然のものです。

 昨日、本学のベテランの先生とお話していたのですが、こうおっしゃいました。この先生は学外に長くいらっしゃったということで、さすがだなと感じます。「ただ授業を受けて修了したというのではなく、卒業後、大学の授業を受けたから今がある、と思えるような授業をしなければならん。先生には存分に暴れてもらいたい。それを期待している」と。プレッシャーではありますが^^、そういわれるとやる気が出ます。次年度の授業についても、もう一ひねり考えています。いま、自身とお付き合いしていただいている産業界の方とのコラボで、実践的で相乗効果のある教育にしようと計画中です(^−^)

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 話は変わりますが、今朝、家を出る前のテレビの番組で、吉田茂前首相の特集をしていました。マッカーサーの威圧的な態度に、ジョークで返すという余裕を見せたという話から始まっていました。

 この余裕っていうのが、人の次元なのかなって思います。中国人の反日デモでは、決まって「日本鬼子(リーベングイズ)」という言葉がでてくるそうです。それに対し、ある日本の団体は「日本鬼子 (ひのもとおにこ)」という、萌えキャラを作ったそうです(詳細はこちら)。

 さすがに、かの国も「こう来るとは全く思いもしなかった」との反応だそうです。
   
   
   
 勝ちましたね ( ̄ー ̄)ニヤリ ( ̄ー ̄)vニヤリッ (* ̄ー ̄)v ( ̄ー+ ̄) ( ̄┐ ̄) ( ̄ε ̄ )

 要は、余裕をもって相手を見ることができるということです。これは民度レベルでも、ひとつの成長、次元の違いだと思うのです。

 何か意見を言うと必死で否定してくる人が結構多くいます。私はそういう人を見ると、この次元の話を思い出し、冷静に相手の話を聞くように努力しています。そうすると、大概の相手(日本人の場合)は、ふと気づいてくれて冷静になります。余裕を持っていると、否定ではなく、いったん受け入れた上でのアドバイスに変わります。

 ちなみに某国で現地の人に「犬を食べるんですか?」って私が素朴に問うた時に、それを非難されたと感じたのか、「日本人だって、馬を食べるじゃないか!(くじらではなく、馬ときたか…w)」と激昂されたことがありました。辛い国、いや熱い国です…^^;;

 いきがっていた学生時代を、いま思い返せば恥ずかしいと思うのも、成長したからこそでしょうね^^