I think we need to see the word "selfless devotion" more from the synthetic perspective. - 教育勅語配布のニュースについて

 インターネットのニュースサイトに、日本のある高校の1年生全員の机の上に、教育勅語の原文が置かれていたという話題が載っていました。賛否両論があるようですが、教育勅語の内容について否の側で議論される場合、戦争と結びつける人が多いようです。「中庸」という言葉がありますが、教育勅語はまさに偏ることのない中庸の精神を維持するのに必要なものではないでしょうか。

 教育勅語の次の部分「一旦緩急アレバ義勇公ニ奉ジ」つまり「滅私奉公」を意図するとされる部分ですが、ここから上記のような短絡的な発想に至り、感情論に突入するようです。しかしその逆、いわば「滅公奉私」な社会が歪を生むのも確かです。人の行動が自己実現論(マズローの要求5項目)に従うとすれば、その放置は「滅公奉私」を生み出します。つまり放置すればいつかは(その極限に至る過程で)社会に歪みが発生します。発生する問題を未然に抑え社会が健全に機能するためには、教育勅語的な内容の存在が不可欠です。海外から日本文化や日本人の行動が称賛される時、多くの場合、その根幹に(少なくとも過去には存在した和を尊ぶ)日本の精神があることも忘れてはなりません。

 「又以テ爾祖先ノ遺風ヲ顯彰スルニ足ラン」という部分も昨今の日本の社会には大切な言葉です。我々の祖先が築き上げてきた遺産に感謝し、戦後の焼け野原を高いアントレプレナーシップの志をもって高度成長を果たし、現在の日本を作り上げた先人の偉業を尊重することは、その高度成長が終わり経済に閉塞感が漂う昨今においてこそ、改めて日本人のアントレプレナーシップに必要なことです。今の豊かさを築き上げてくれた先人の遺産を食いつぶすのではなく、私たちがさらにそれを積み重ねていく精神、それこそがアントレプレナーシップの道徳です。

 昨日の大学院の授業にて、海外の学生が課題用紙に「この授業は来日して6年間で集中して聴けた授業です。経済的な考え方をもっと身につけたい。」(一部ひらがなを漢字に変換)と感想を書いてくれました。

 「企業戦略概論」という科目ですが、何を話していたかなと思い返すと、まだ2回目ですので教科書はほとんど進めておらず(といいますか、90分授業15回では時間が足りない…)、ビジネスの創造に必要なまさにアントレプレナーシップの道徳を懇々と話していました。「変化を捉えること」「発想の転換」「国を想う心」と「何が真実か」そして(現状では)地動説が正しかったとされるように「常識を見直すこと」です。アダムスミスが述べた『国富論(An Inquiry into the Nature and Causes of the Wealth of Nations)』における考え方でさえ、時代により評価は異なるわけです。

 教育勅語の問題も、狭い視野で短絡的に考えるのではなく、日本社会の現状を広く見渡せば、否の意見も変わるのではないでしょうか。

 何よりもこのニュース、誰が置いたのかというよりは、外部からの侵入であるとする場合の管理の問題のほうが問われますね。