In general, it is called common sense. However, a possibility we mistake cannot be denied. − シュールリアリズム万歳!


シドニーの空港、日本の空港のようにカクカクしていません。ショップのスペースは通路の横に押しやられていません。曲線の自由さと境界のないレイアウトが開放感を感じさせます、2013年7月)


 「考えてみると、ぼくたち、生きているか死んでいるかのどちらかに割り切ってしまう常識論に、こだわりすぎていたと思うんです」(安部公房「R62号の発明」)
 死に場所を求めてさまよっていた主人公、川沿いに歩いていると、間もなく引込線の端が運河に突き出した場所、飛びこむには絶好の位置を見つけた時、不意に後ろからある学生にこう提案されます。「あなたの死体を売ってください」
 主人公はこう答えます。「ぼくが死んでから、勝手にすりゃいいじゃないか」
 学生はこう返します。「死体といっても、本当は生きたままのやつのことなのです。生きたまま死んだつもりになっていただいて…」
 そして上記の文言につながります。

 私は中学生のとき安部公房の小説をはじめて読みました。その時の衝撃は今でも覚えています。高校生の頃には、既に出版されていたすべてのタイトルのものを読みました。その後、大学生の時、未公開作が見つかったと聞いたときは、誰よりも早く購入しました^^

 その影響も少しはあったのでしょうか。高校に入り、みなが当たり前のようにやっていることをやらなくなり(言い訳のようですが、その結果、高校では落ちこぼれ…笑)、大学では就職活動という「儀式」に疑問を持ちました。

 大学に入学する直前だったかに安部公房死去のニュースを耳にしました。きっと熱狂的なオザキのファンがその死を悼んだであろうと同様の感情に包まれました。


 これも影響なのでしょうか。学生時代の私には、社会人と学生の境界線はなく(そのように割り切ってしまう常識論にこだわっておらず)、起業へのハードルというものも皆無でした。

 時折指摘されますが、起業というと何か大層なもの、オフィスを準備して、計画をきちんとたてて、社会経験を積んで、とにかくちゃんと揃えなければいけないものという思い込みが、今の学生にはあるようです。われわれ日本人は島国に育ったから?規制の中で育ってきたから?そうなのかもしれません。そもそも起業に関して教える側が何か特別なもののように扱い、「一歩を踏み出す」などと大げさにしたがる者がいる点に問題の所在があると思います。

 昨日、久々にボロボロになりかけの安部公房の書を読みながら、東京出張の移動時間を過ごしました。ここ15年ほど、忘れかけていた感覚をほんの少し取り戻したような気がします(^^

    
 (左/同じくシドニーの空港です、右/昨日、東京出張でした。お昼を探していると「決戦前夜」という名のお店が…、これは「割り切る」というより「ケジメ」ですね。線を引きたがる習性には変わりませんが…^^)

 
 (日曜は福井県立美術館にミケランジェロ展を見に行きました。入り口の天井です。この先は写真撮影禁止とのことでした。ミケランジェロも精緻で、かつとてもリアルでいいのですが、私はやはり安部公房と同じシュールリアリズムであるダリが好きです)