終戦日にタイで感じた大事な心

 
 
 (チェンライの片田舎の風景、ソンテオの中から)

 日本に無事帰国しました。タイは何度も来ていて、また多くが観光ではなく仕事にもかかわらず、いつ来てもこの帰国時には寂しくなり、また訪タイをしたくなります。

 さて昨日、この日に限ったことではないようですが、地下鉄の駅で急に音楽が流れ、駅員も乗客も一斉に立ち止まりました。時間はちょうど18時です。音楽が流れている間、外国人だからといって一人だけ動くのもいけないと思い、私も立ち止まって黙祷をしました。

 昨日は8月15日、終戦日です。タイのこの慣習の意味はわかりませんでしたが、私としては先の大戦で祖国日本のために命を捧げた英霊の方々への敬意と感謝の気持ちを込めて。

 韓国が相変わらず、わが国の教育内政や要人の発言などに口を出しているようです。しかし日本のマスコミも一々、そのような韓国の言動を相手にするのはどうかと思います。彼らの理不尽な主張の広報(スポークスマン)になってしまいます。

追記:
 私がカラオケで歌う数少ない歌の一つに「同期の桜」があります。その中の歌詞に「離ればなれに散ろうとも、花の都の靖国神社、春の梢に咲いて会おう」という一節があります。
 私のような若い(?)人間がいうのも何ですが、今の学生は「靖国で会おう」という非常に重要なこの言葉の意味を知りません。
 なぜ、会う場所が靖国なのでしょうか?それは戦時中の日本では、戦争で命を落としても、日本国がその方の英霊を靖国神社に合祀し、以後、英霊として奉ると約束したからです。ですから日本人はみな命という最も貴重なものを日本国に捧げました。つまり戦場で離れ離れに散っても、靖国で会うことができ、その後、ずっと日本人の誇りとして合祀される、その思いがこの歌詞に込められています。
 しかし今の日本政府はこの約束を反故にしています。閣僚だけでなく、総理大臣ですら靖国神社に参拝をしません。自国民との約束さえ反故にする国で愛国の心を育むのは難しいものです。