電気料金の値上げを肯定すべき本当の理由は?

 電気料金の値上げについて、政府内の要人による容認発言がなされ、各々が各々なりの思いをもって受け止めていると思います。おそらく電力料金の値上げに対する肯定派と否定派が半々程度に分かれると思いますが、値上げを肯定するにせよ、私はその根拠に誤解があってはいけないと思っています。その誤解とはどういうことかを以下に説明します。

 まず蓮舫節電啓発担当相が「料金をどのようにしていくのか節電とのインセンティブという形で示すのが筋ではないか」と述べたとされ、値上げを容認する姿勢を見せた(産経新聞 4月22日(金)11時17分配信「原発賠償で電気料金引き上げに一転、容認姿勢も」より)という点について、整理したいと思います。

 料金設定に関するポイントは電力事業が地域独占形態であり、供給者側が強い価格支配力をもつという点です。おそらくこのことから、料金と節電のインセンティブの関係をまず想定するものだと思います。

 この点について少し説明します。授業で扱う説明の要約になりますが、簡単に述べると「本来の企業行動は」独占状態の場合、利潤最大化を目的とした場合は「費用曲線の傾き」=「総収入曲線の傾き」となる供給量と価格を決定します。つまり最も利益を生み出す供給量と価格、いわゆる「限界費用」=「限界収入」となる場所で決定されます(この話は後の授業で扱いますが、気になる学生は教科書「教養のミクロ経済」の第9章2節にわかりやすくまとめまていますので少し先を予習してみてください)。

 さて、このような価格支配力をもつ独占企業が行う需給の調整(?)において、大臣のいう「節電とのインセンティブという形で示す」というのは、決して間違った意見ではないのですが、少々誤解を招くかもしれません。それは①電気というものがいわゆる必需品の部類ですので、需要の価格弾力性が低いこと、またおそらく②価格の問題ではなく、今や十分に皆は節電に取り組んでいることが考えられ、価格を上げることで「価格の割当機能」以上に別の弊害が出るのではないかという危惧です。

 ①に関しては、言うまでもなく電気は食料品などと同様に、日常生活を営むうえで必要なもので、価格の変化に大きな反応を示さないという点です(教科書第2章3節)。もちろん食料品程度の変化は示します。②に関しては、いわゆる権利の割当(映画館の指定席など、教科書第8章1節)にあたる話になりますが、この議論を必需品に当てはめて議論するのは少々無理があります。いわゆる割り当てを受けるためのお金を持っていない人は排除されるということになります。これでは公共性の根本を覆してしまいます。極論すれば、電気はお金がある人が贅沢をするために使うものと決めつけてしまいます。

 このような点から、大臣が述べておられる意図は汲み取れないことはないのですが、少々誤解を招く可能性があります。

 では、電気料金の値上げを肯定すべき理由はどこにあるのでしょうか。もしかすると東京電力という会社を救うためと思われる方もいらっしゃるかもしれません。結果的にそうなる可能性は否定できませんが(また私は、東京電力の自主的な費用節減努力の上で、電力の値上げが同社を救う結果になるならばそれで良いと思いますが)、事の本質は別にあります。

 少し違和感を感じる見解かもしれませんが、そもそも電力各社は本来電気料金をもっと上げなければいけないところを、上げてこなかったということです。これは外部性と呼ばれるもので、電力各社が電力の製造費用(特に種々の予防的措置を含めた原子力発電)を安価に見積もりすぎていたということです。

 もちろん今回のような事故を事前に防止するための措置が取られることが優先ですが、そのための費用も含めて、今までは本来支払うべき「広義の」環境汚染に対する費用が無視されてきました(少なくとも、今回の事故の結果を見る限り、大きな費用の認識がなかったことになります)。これは社会的限界費用曲線と私的限界費用曲線の違いと言われるのもので、環境汚染等に対する費用は誰に支払うか不明瞭であるためにその費用は存在しないと企業が思い込み(私的限界費用曲線)、その結果、(生産者が考えるコストが過小なことから)販売価格が下がり需要が本来(社会的限界費用を考慮した場合)よりも増え、過大な生産を行うというものです。本来は環境汚染の費用もきちんと製造原価に入れるべきであり(社会的限界費用)、そうすると価格は上昇し、供給量も減少します(以上、教科書第13章1節)。
 
 今回の事故をみて、電力会社における社会的限界費用と私的限界費用の差がいかに大きいかが明確になりました。このような社会的限界費用を考慮すべき理由から、電気料金の値上げは肯定されるべきものなのです。このように説明しないと、きっとみな「なぜ値上げを受け入れなければいけないのか?」と思ってしまうでしょう。

 なお今回の事故は一般的な環境汚染とは別問題であることは承知ですが、それでもその予防措置を取るべきであったという意味で、「広義」の環境汚染という定義の上で話をしています。また今後、原子力発電はその必要性を認めつつも、今までのような安価で効率的な(安全性の議論は別として)発電方法という表現は控えられるかもしれません。