Is it a sophistry or right insistence? - そもそも基本的な認識に違いがあるわな…

 11日のケリー国務長官の広島訪問に続き、オバマ大統領の訪問が検討されていると報道されています。

 AFP.comによると、"If you are asking whether the secretary of state came to Hiroshima to apologise, the answer is no"((ケリー氏は)謝罪しに来たわけじゃない)とのこと。このコメントは日本のメディアでも報道されました。

 同記事で注目すべきは、その次に続く文言です。"Japan, as the only nation to experience a nuclear attack, emphasises the suffering its people endured. But while publicly calling for the eradication of nuclear weapons it has for decades been a close security ally of Washington under the protection of the US nuclear umbrella."(AFP.comより引用)要は、日本は核攻撃を経験した唯一の国として、その苦しみを強調するが、おまえらは米国の核の保護でやってきたじゃないか(かなり要約)!といっています。まぁ、これが「現代の」米国人の考え方なのかもしれません。

 どちらが正しいかは不毛な議論ですが、日本人と米国人の基本的な考えのベースの差異を感じますね。

 マーガレットサッチャー元首相の「我々は核兵器のない世界ではなく、戦争のない世界を目指す。」という言葉が有名です。一瞬、納得してしまいそうですが、日本人にとっては、どうもしっくりこないですね。核兵器のない世界「も」目指してよ!ってね。この言葉は、核兵器の「ある」世界を肯定し、その上で戦争の「ない」世界を実現するという意図を含んでいると思われます。つまり核兵器を戦争に対する「抑止力」と考える前提があるわけですが、その前提がそもそもおかしいわけです。

 ゲーム理論では「囚人のジレンマ」が有名ですが、これは2人の囚人が互いに相手が裏切るのではないかと疑心暗鬼になって、結局共に相手を裏切るというものです。ここではお互いが同条件であることも、ジレンマのポイントです。

 もし核兵器を抑止力と捉えるのであれば、双方の保有が前提になります。日本人が誤解してはいけないのは、まさにこの点で、サッチャー元首相の発言自体は、この前提を含んでの事でしょうから、おかしくはないのでしょう。当時の前提は東西冷戦、つまり東西共に核兵器保有していましたから。

 しかし冷戦時代も現在も、世界では「一部の」国の核兵器保有が戦争の抑止力につながっていないことは明らかです。米国はどのような理由であれ、核兵器保有しつつ、戦争を各地で行いました。互いに持っていないと、持つ国が持たない国(または人々)をやつけるための威嚇または武器でしかなかったのが実際です。日本は米国に原子爆弾そのものを落とされた国です。
(米国の行動については「どのような正論もかっこいい言葉も素晴らしいウンチクも、その発言者の過去の行動を考えれば、シラけることがあります」と述べた、過去のブログ「The words would do if it wasn't said by him. ‐ その前に言うことがあるだろう(リンク)」を参照。)

 「我々は核兵器のない世界ではなく、戦争のない世界を目指す。」というサッチャー元首相の言葉は、シラけこそしないものの、私たち日本人はそのような一見かっこよく見える言葉に酔わないで、冷静になりたいものです。そもそもサッチャー元首相の言葉をより正確に理解しようとすれば、"A world without nuclear weapons would be less stable and more dangerous for all of us." by Margaret Thatcher(核兵器のない世界は、私たちにとって安定に欠け、より危険である)のほうがいいでしょう。カッコよくはないかもしれませんが、このほうが突っ込みを入れたくなる、または納得できないという点で、平和ボケした国民にも少しは正しい理解を促します。